kurobird’s diary

僕の頭を垂れ流す。

人の心の強弱についての持論

将来的にひっくり返すとか補正とか何かするかもしれないけど。

 

何らかの心理的負担が降りかかってきた時、それにどう対処するかで人間的に強い人、弱い人という風に大別できるように思う。つまり、「心理的負担に対する丈夫さ」が「人間的な強さ」とほぼ直結している。

 

強い人は負の感情が生まれても、それにそのまま流されるような事はない。負の感情の濁流に抵抗するだけの力を持っている。逆に、弱い人は水が流れるかのごとく自然に思考がどんどん暗い方向に向かっていく。

 

まぁ強弱の定義がまだまだ短絡的であるはずなので、「流されにくいが弱い人」あるいは「容易に流されるが強い人」みたいな反例もそのうち出てくるかもしれない。

 

人間は混沌としているから、単純に決めつけるような事はしたくない。それでもある程度の指針みたいなものは欲しい。

 

極端な完璧主義からの脱却

ピアノを弾いていると、自分が如何に完璧主義者なのかがわかる。少しのミスも許されない。とても細かい失敗でも一個でも発生したなら、もうその演奏には価値がなくなってしまう。さながら綱渡りでもしているようで、常に緊張しながら弾いている曲が多い。

 

自分に課しているものが難しすぎるのだ。もっとハードルは低くて良い。僕なんて大したことない人間なのだから、せいぜい小さな目標しか達成できないし、寧ろ厄介な目標なんて立てるものじゃないのだ。

 

これはピアノに限った話ではない。日々の中の様々な場面でも言えることだろう。

 

その日の目標を立てるとしたら、それは簡単なものにして、達成できたら上出来。完璧主義は色々思考とか行動ががんじがらめにされてよろしくない。

 

ただし、その「完璧主義を完璧にやめる」という風になってしまうとだめだ。あくまで「必要以上に完璧であろうとするのをやめる」というスタンスでいないといけない。完璧主義だって正しく機能すれば素晴らしいものなはずなのだ。

禁止ではない別の言い方

ピアノを弾く時に顕著なのだが、失敗を恐れて焦ったり緊張したりすると余計に弾けなくなる。なので、焦らないようにするのが肝心なのだが、神経質な僕にとって自分に「焦るな」という禁止令を出すのは「焦ってはダメだ」という風に気にし始めて、それができない自分にさらに焦りが加わるので逆効果である。

 

つまり、禁止するような言葉ではない形で僕に方針を言い聞かせる必要がある。例えば今の場合なら「気楽に」が妥当なところだろうか。これは色々な場面で応用できそうだ。

ラインを消した

長らく我がiPhoneに入っていたラインを昨日消した。

 

どうせ大して重要なこととかないし、あんまり返信するような会話とかないし。何ならうっとおしい奴とかいるし。

 

大体、消したら何かまずいことでもあるというのか。いや何もないだろう。

 

という訳で、僕はラインを消した。どうせ困ることは何もないだろうし、常にあった他人との繋がりがいっぺんに消えて何だかすっきりした。 

 

昔の人はこんなものなくても別に何も困らなかった。今も、生活の必需品なわけがない。

 

余計なものはいらない。余計なものはあればあるほど余計だ。

故郷がない寂しさ

僕は転勤族で、小さい頃から日本の西側を転々としていた。とは言え、小学6年生に上がる前に今いる場所に引っ越して以来、僕自身はずっとそこにいる。父は単身赴任してさらに色々な場所を巡る事になったけど。

 

でも、引っ越しする事がなくなったからと言って、自分が根無し草であるような感覚が拭える訳ではない。それは僕にとってけっこう不安になる。一体自分はどこからやってきて、何故今の場所にいるのか。僕の起源はどこなのか。そんな不安だ。もちろん今いる場所にいるのは父の転勤の結果であって、何も不明な事はないはずなのだが、どうにも根無し草な感じが拭えない。

 

僕は、自分が生まれ育った故郷がある人々が羨ましい。彼らにとって、帰る場所はそこなのだ。帰る場所がある。子供の頃からずっとすごしてきた街がある。自分のルーツとなる場所がある。

 

僕には、そういう感覚がない。自分が生まれた場所はある。育った場所は複数だ。だから、生まれ育った場所というのがない。自分の確かなルーツがなくて、色々な場所に分散してしまっている。

 

今、僕が住んでいる街にはもう10年以上住んでいる。だからそこを僕の故郷としても別に良いはずなのだ。なのに、何だか故郷という感覚がない。まぁ多分、来月に今いる街を去ってから、急に懐かしくなって、寂しくなって、ああ、あそこが僕の故郷だったんだなと思うようになるのかもしれない。

 

でも、僕の家族は誰もそこにいない。兄弟は上京したし、両親は相変わらず転勤で遠い場所にいる。みんな散らばってしまった。故郷なのに、誰もいないのだ。

ある人とはもう二度と会わない不思議

一度別れたら最後、もう二度と会わないだろうなという人達が人生で何人もいる。寧ろ、別れた後も会う事があるような人達の方が少ないだろう。別に能動的に会いに行けばその限りじゃないだろうけど、そうする理由は大抵の場合ない。

 

何だか不思議だ。世界は狭いとか広いとか言われるけど、やっぱり広いんじゃないかな。相当な人数に出会って、その大半はすぐにいなくなる。いなくなり得るくらい広い。

 

まぁその場でもう会う気がしなくても、いつか偶然再会するという事もあるかもしれない。そしてまた会わなくなったり、或いはその縁が継続するかもしれない。

 

気ままに振る舞う縁というのに、僕らはしばしば振り回される。そういう人との交流で受動的な態度を取っているから、確固たる関係がない事に寂しさを覚えるのかもしれない。

孤独という休憩所

他人と関わりすぎて、なんだか嫌になったり疲れたりしたら、部屋で一人、孤独になるのが良い。この時、SNSとか、メール、ラインとか、そういう他人との繋がりを全て遠ざける。例えば、スマホとかPCから物理的に離れるのが有効である。そして、頭の中から他人という他人全員を追い出して、忘れ去るのだ。そうして残るのは、自分だけ。他には誰もいない。他人による鎖から解き放たれて、自由を得る代わりに孤独となる。

 

この方法で、僕は肩から重荷がすとんと落ちたように心が身軽になる。今まで孤独というものを恐れていたが、最近は休憩する時、寧ろ積極的に孤独になろうとしている。

 

それで良いのだ。常に孤独というのは寂しいが、常に他人と繋がりっぱなしというのも考えもので、それはやがて束縛となり、心身を侵食していく。そして、自分という個を見失うのだ。とはいえ、常に孤独で、他人との関わりが慢性的に一切ない場合でも、自分を見失ってしまう。

 

要するにバランスが重要なのだ。自分が自分でいられるように、うまくコントロールしていく必要がある。どのタイミングで孤独になれば良いかというのは、自分で探っていくしかない。

 

僕の場合、その時は自分自身がふと知らせてくれる。直感ともいうべきだろうか。ふと、もう他人といたくないと強く望む時がある。それはつまり、そういうサインな訳で、そういうのは大切にするべきであると考えている。ちなみに、夕方とか夜で体力的に疲れてきた時が多い気がする。

 

何が原因でとかは考える必要はない。それは往々にして曖昧であり、様々な種類の、でもひとつひとつは小さな傷や怪我が重なって気がついたら傷だらけになっていたというパターンも多い。とにかく他人から離れたいのなら、可能な限り即座に孤独になるべきで、原因探しは余裕が生まれてからで良い。